マスコミ論についてもうちょっと

遅くなりましたが - 蜈蚣さんの歩き方 〜邪に無きことを思ふこと〜
前回のエントリにid:aiakiより反応をいただいたので、またエントリを起こしてみました。誰かから反応をいただけるのがうれしくて、こちらもエントリを重ねてしまっていますが、別に誰かに喧嘩をふっかけてるとかそういう意図はないので…。

さて。

好ましいマスコミというものに関してですが、もう少し、旗幟鮮明にした形でモノを申してくれればなと私は感じています。今でも十分解り易いじゃないかとも感じますが、表面上「不偏不党」を謳っているせいで、穿った見方をしたくなるときがありその辺りが困ったものだと感じているところです。

この部分についてですが、本心としては同意です。ただし、それでは世の中うまく回らないだろうとも考えてしまいます。例えば党の機関誌といえば「赤旗」ですが、「赤旗である」という理由だけでまともな論評の対象とは扱われていないように思います。(「聖教新聞」はまあ致し方ないとして)
「不偏不党」という建前・名分はマスコミには必要不可欠なのでしょう。


もうちょっと掘り下げて考えてみると、Blogなどでのやりとりでもお互いに「不偏不党」であることを前提にしているはずです。「私は○○党を支持しているので、□□という政策も支持する」では議論になりません。「(私は○○党を支持しているがそれを差し引いて考えても、)△△という理由によって□□という政策を支持する」となっているはずです。そうであるからこそ互いの論理について討論が成立するのですから。
実際にはそれぞれの抱えている背景は、明確に論説に影響を及ぼしているでしょう。しかし、有意義な議論をしたいのであれば相手の抱えている背景にはあまり触れるべきではないと思っています。本音トークで何か結論を出そうとすることは泥仕合にしかならないと思います。
そういう本音を隠し建前で議論するのを嫌う向きもあるでしょうけれど。

ただ、情報の伝達手段としては、一次情報は出し元を辿る事が出来るのだしそれをマスコミが延々やる必要は減ってきているから、そのうち無くてもOKって事になるんじゃないかな、とは思っています。出てきた情報に関しての分析を深く突っ込んで平易にまとめるとか言う事を今後マスコミがやらなければ、情報元としての価値がなくなりますし、意見としては便所の落書きとけんかするレベルになってしまうでしょうしね。

そもそも論で言えば、タブロイド紙大衆迎合的な論調に染まるのはよくあることで、今の日本のマスコミが特異であるとは思っていません。そこに対するカウンターとしてインターネットが活用されるのはよいことではありますが、市民記者の現状を見る限り一次情報の発信側へと立つことは非常に難しいと感じています。足を使って情報を集めるという意味では職業記者の存在は不可欠でしょうし、それを支えられるのはやはりマスコミとなるのではないでしょうか*1。一方で、議論を深める場としてのインターネットは今後ますます活用されていくと期待しています。


ただし、皆が皆、床屋政談で論理的な議論を好むわけでは無いのですよね。感情的な物の見方を好む人たちというのもいるわけで、民主主義国家である以上、そういう人たちを単純にノイズとして排除していいものかというジレンマはあります。「便所の落書き」として無視するのか「それはそれで民意である」として受け止めるのか、ですね。
(前回の選挙による政権交代の理由として、報道による影響の部分がどこまであったか?というのも私はかなり懐疑的です。不況下で政権政党が得票を落とすのは当然であり*2自民党が国民の不安・不満といった感情を受け止められる政策をとれなかった以上は必然ではなかったかと。他の野党を押さえて、民主党が第一党へとなったのは報道の影響が大きいとは思います)


今の日本の抱える閉塞的な状況については思うところは色々とあるのですが、それについては時間のあるときに別にエントリを起こしたいとおもいます。

*1:収益モデルさえ確立できれば、インターネットにおける職業記者というのも成立するとは思いますが、収益モデルによる制約を受ける以上は既存マスコミと本質は変わらないでしょう

*2:小泉政権政権政党内での対立構造を作ることで得票を伸ばしましたがアレは例外